2019/10/03わせディア運営をきっかけに学んだ、「勉強する」ってことの目的

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#勉強

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智朗手塚

手塚智朗早稲田大学商学部4年

1997年7月17日 北海道出身 早稲田大学商学部。中学時代、バスケ部の部長として“孤立”をした経験から「個の価値観」について興味を持つ。主に人材×ITの領域で就職活動を行っていた。現在は「面白い男になる」という生き方の軸を追い求め休学を決意。3人の友人の協力のもと早稲田特化型メディア『わせディア』を立ち上げる。中学生時代から約10年のヒップホップ愛聴家。

わせディアはまずオフラインコミュニティから

こんにちは。久しぶりの記事投稿となりました。手塚です。
これまで早稲田大学という非常に広い括りで、記事投稿をしてきました。多岐にわたる記事の中にはいわゆる“小バズ”を起こすものもあったりと、閲覧数に着目すると思ったより見ていただけている印象です。一方、このままのテーマで記事投稿を続けても、誰のためのものなのか不明瞭になるばかり。目的を再認識したところ、わせディアを通してコミュニティを作っていくことになりました。(詳しくは10/14(月)の記事で)
見られることが目的でも小銭を稼ぐことが目的でもないのです。今まで数字が取れていた記事も、臆せず取りやめていきます。

前置きが長くなってしまいましたが、そんなことを考えていると改めて
「目的の設定/認識能力って、その後の行動全てに関わる重要なものよね」
と感じるわけです。一度目的設定を明確にするだけで、地道な作業もすこぶる前向きに取り組めるようになったり。目的の認識を間違えると、全く本質的じゃないところに必死になっていたりなど(手段の目的化みたいなことってしょっちゅう起こりますよね)。
そして僕たちが今まで最もその目的に対して心を砕いてきたこと、それは「勉強」じゃないでしょうか。今日はそんな勉強(教育)についての永遠の問いについて、またもや小金澤君が筆をとってくれたので、編集なしでそのまま引用してみます。(手抜き)

「勉強すること」についてもっと勉強しようよ

今回は小学生の頃一度は誰しもが思ったであろう問い、「勉強って何の役に立つんだよ!!」について書きたいと思います。このことに対して明確な答えを与えてくれる大人は非常に少ないと思っています。これにこたえられなければならないはずの教師ですら、なんとなくでしか答えてくれない。下手をすれば「そんなことを聞くなんてなんてやつだ!勉強をするなんて当たり前だろう!」と怒られる。そして思考を半ば強制的に停止させられ、次の世代にも同じような文言を繰り返す…。この連鎖を断ち切ろうなんて大それたことは思っていませんが、僕なりに20余年考え続けてきたことについて、ここに書きたいと思います。

古典の先生が教えてくれた、手段ではなく勉強そのものを楽しむ姿勢

僕はこの問いに対して答えを見出せるようになったのは、高校生の頃です。僕の出身校は勉学に力を入れていたので、毎度毎度あり得ない量の課題が出されていました。今思えば、何とかして納得のいく答えを出さないとやってられなかったのかもしれません。
答えを出すきっかけになったのは意外にも古典の時間のとある先生の発言でした。しかもその時間は授業でも何でもない、朝補習の時間。先生は僕たちに言いました。

「古典から美意識が学べる」そう思った瞬間芽生えた汲み取ろうとする意識

「お前たちなんで古典をやると思う?」
僕は少し戸惑い、そして少し期待しました。待ち望んでいた答えが、ついにここで聞けるかもしれない。しかし、先生が次いだ言葉は僕の期待を裏切りました。
「大学に受かるためだ。それ以外の何でもない。みんなが古典で飯を食おうとしたら、日本は回らなくなる。古典で飯を食おうなんて奴は、少ない方がいいんだ。」
正直がっかりしました。どう考えても、その理由は本質的ではないだろうと。今その発言を聞いたら、きっと授業の後に先生に抗議しに行くでしょう。でも、僕に光明をさしてくれる言葉を先生は更に次いでくれました。
「だが、古典から学べることはある。大事なことが学べるんだ。兼好法師の徒然草があるだろう?兼好法師はいつの桜が見ごろだと書いていると思う?満開の春の桜か?新緑に萌える夏の桜か?…兼好法師は冬の桜こそ一番見ごたえがあると書いているんだ。」
訳が分からない。冬のさくら?あの何にもついてない、言ってしまえば死んでいるようなあの桜がどう見ごろなんだ?先生の発言の意図をすぐにくみ取ることは難しかったです。もちろんその心も先生は語ってくれました。
「兼好法師は、冬の桜がいいのは、それを見て満開の桜を想像できるからいいと述べている。いいか、これが日本人の感性なんだ。美しいものを直に美しいとは言わず、あえて間接的に伝えるんだ。ここに、日本人の美学がある」
僕ははっとさせられました。なるほど、古典を学ぶことは非常に意義のあることだと思い知らされました。一見すると矛盾する表現の裏に隠された、深い感性を目の当たりにしたとき、僕は得体のしれない感動に襲われてしまったのです。今でもあの時の感情を正確に描写できる言葉は、僕の中にはありません。ただ一つ言えることは、ここから僕の古典に対するスタンスは明確に変化しました。源氏物語で女性が見せる所作に美しさを感じ、授業で扱う短歌を深く味わおうとするようになりました。

なぜを問う過程で見えてくる本質的な意味。別に勉強だけじゃない

多分、これに類するものをあらゆる教科が持ち合わせていることと思います。答えは一つではなく、個々人に合った意味が勉強という営みの中には内在しているのではないかと今では考えています。この意味を知覚するためには、相当量の勉強をこなさなければいけないでしょう。勉強する意味について自分で自分が納得する答えを導き出せるようになったのは、大学受験で勉強を極めようとした時でした。全ての人にそれを強制しようとはもちろん思いません。勉強をするしないは個人の自由です。だからこそ、教壇に立つ人には、勉強をする意味を探すきっかけを作れるような何かを自分の中に持っていてほしいなと僕は思っています。「なぜ勉強をするのか」に対する答えを見つける過程にこそ、勉強をする本質的な意味があると、今では僕は考えています。どうせ通る道なのであれば、勉強の本質を知れるような手助けをできる誰かが教壇に立っていてほしいと思うのです。

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