2019/07/08【聡明な早大生へ】「考えすぎ」問題

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智朗手塚

手塚智朗早稲田大学商学部4年

1997年7月17日 北海道出身 早稲田大学商学部。中学時代、バスケ部の部長として“孤立”をした経験から「個の価値観」について興味を持つ。主に人材×ITの領域で就職活動を行っていた。現在は「面白い男になる」という生き方の軸を追い求め休学を決意。3人の友人の協力のもと早稲田特化型メディア『わせディア』を立ち上げる。中学生時代から約10年のヒップホップ愛聴家。

無駄?考えすぎるその時間

 こんにちは、お先に編集者の手塚が失礼します。本日は、現在小説『世界が恋だと言ったって』を連載いただいている大月さんからの提供記事です。一言で言うと「考えすぎ」問題。

 皆さんも周りの考えが気に食わなくてイライラしたこと、逆に周りの思惑が不安で行動に移せなかったこと、その数一度や二度ではないのではないでしょうか。「考えすぎ」問題は、恋愛を始めとする『キャンパスライフ』やこれから就職先を決定していく『キャリア観』の問題にも大きく関わります。普段から深い思考を繰り返している作家大月さんの思考をお借りして、一緒に振り返ってるきっかけとしてみましょう。

大月輝

 考えすぎだって、という言葉を言われて驚いたことや、悲しくなったことは、割と多くの人が経験しているのではないかと思う。
 
 気にしすぎだって、という言葉よりも、「考えすぎ」という言葉はデリケートな存在な気がする。「気にしすぎ」よりももっと自分の感覚への否定のように感じられて、わたしはいつも、この言葉を投げかけられると会話に詰まってしまう。
 
 この言葉は、まるで「考えすぎ」は可哀想、そしてあなたはそんな風にしか考えられなくて不幸だねと言っているように聞こえる。
 
 でも、「考えすぎ」ていることによってわたしは傷ついているわけではない。そういう風にわたしの思考を勝手に他人の基準で判断されるからなのだ。どうして、あなたの感覚をわたしの感覚にまで応用しようとするのか。
 
 わたしの思考回路はわたしが編み出したもの、あなたの思考回路はあなたのもの。だから、あなたが「考えすぎ」と思う物事は、わたしにとっては重要なのだ。

 だけど同時に、相手の言うことも完璧に否定できるわけではない。
 
 そうだね、確かに、もしかしたら、わたしは少ない情報で色々なことを一度に判断しすぎなのかもしれない。だけど、その考えの筋が通ってしまっているから怖いのだ。
 
 ありえないことはない。
 
 その存在に、どれだけ肝を冷やしてきたことか。特に、それは恋愛関係では顕著だった。小さいことにすぐ引っかかってしまうのだ。今まで飲み会のあとは必ず返信をくれていたのに、今回はない。もう夜中の1時半なのに、とか、普段よりも会話の反応が悪いな、とか。そして、次に続く言葉は「わたし、何か間違ったことしたかな」。
 
 もちろん、それを毎回表に出すわけではない。そんなことをしていたら、続く関係も続かなくなるのはわかっている。だけど、溜め込みすぎてのちのち爆発しても「言えばいいのに」、言ったら言ったで「重い」になるような気がして、もうコミュニケーションを取るのすら億劫になる。

 恋愛以外の事象に関しては、考えすぎくらいの方が面白いのかもしれない。もし、ストーリーの軸を考え込んで、手の込んだ小説をたくさん作れたら、わたしのためだけではなくて読んでくれる人のためにもなる。
 
 だけど、恋愛関係は別だ。彼の本心を聞きたくない、拒絶されたら怖い、そういう臆病さから「考えすぎ」になって、結果的に自分で自分の幸せを破壊する。
 
 しかも最悪なことに、「考えすぎ」マシーンのわたしは、結局自分のことしか見ていないのだ。自分の感じている恐怖、パニックしか見る気がないのかもしれない。だからこそ、逆に相手に「どうして今、おれは嫌な気持ちになっていると思う」と言われたときに、自分の感覚で判断しがちになる。
 
 考えてもわからなくて、そのことを正直に打ち明けると、「もういい」と見切りをつけられてしまうのだ。どうして、いつも色々と考えているくせに、何もわからないんだ、と一気に現実を鼻先に叩きつけられる。
 
 その通りだった。このときが、一番、今までの自分の思考を否定されたようになった。それも、全く否定できない事実付きで。まるで印籠である。目に入らぬか、と言われる前に目に入れられて、身体中で血が沸き立っていく。自分は恥ずかしい人間だ、とこのときほど思ったことはない。

 といったわたしの事例はさておき、恋愛における「考えすぎ」はきっとこういうことなのだ。自分の思考と予想に捉われて、きっとそれが正しいのだと根拠を提示して、「そういうことなんでしょ!」と相手に向かって自分自身を全身に押し付けているような、浅ましい行為だったのだ。
 
 わたしを見て、わたしの感覚にずっと寄り添って、なんてずっと喚いていれば人は離れていく。当たり前のことだった。
 
 自分に浸りすぎて、自己愛が激しくて相手がまるで不誠実みたいに感じられる「わたしの考え」。そこにどれだけの正当性があるのか。「考えすぎ」は、想像以上にずっと大きいコミュニケーション問題なのかもしれない。

編集コメント

 なかなか不思議なフローである。「考えすぎ」と他人に言われた冒頭では、「あなたの思考で私を図るな」と言わんばかりに排斥している。しかし終わってみると、自らの「考えすぎ」の性質ゆえ、自分のものさしで相手を測ろうとして嘆いている。

「考えすぎ」問題は、尊く歪曲した自己愛を助長し他人を受け入れにくくする。そして気付かぬうちに自己愛にのめり込んで、他人を自分のそれに当てはめるようになる。自己愛と自己肯定感は似たようで少し違う気がする。前者は相対意識のもと自分への肯定そのもの目的とする「こうあるべきだ思想」、後者は自分の性質を包括的に受け入れることができる「自然体思想」(←良い言葉が見つかりませんです)。

とはいえこの競争社会で、自己肯定感を勝手に醸成するのは至難の技。若き大学生のこの時期は、金や時間を自己投資に使って自己肯定感を高めていくのが得策かもしれない。

うーん、すごく脳みそを動かされる内容!大月さんありがとう、これからも小説他宜しくお願いします!

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