2019/11/05「努力は必ず報われる」の光と影

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智朗手塚

手塚智朗早稲田大学商学部4年

1997年7月17日 北海道出身 早稲田大学商学部。中学時代、バスケ部の部長として“孤立”をした経験から「個の価値観」について興味を持つ。主に人材×ITの領域で就職活動を行っていた。現在は「面白い男になる」という生き方の軸を追い求め休学を決意。3人の友人の協力のもと早稲田特化型メディア『わせディア』を立ち上げる。中学生時代から約10年のヒップホップ愛聴家。

 先日何気なく参加したとあるミートアップで出会った視座高き学生のことを思い起こしている。これまでの学生人生ですでに二つの会社を起こしている彼は、就活期に差し掛かり得た一つのビジョンを語ってくれた。
「言い訳できない世界を作りたい」
 母子家庭に生まれ苦しい生活を余儀なくされながらも逆境を乗り越えてきた彼は、誰よりも努力が結果を裏切らないことを証明してきたという。一方そんな彼も「努力しろ」と主張できない対象がいるという。例えば、身体的マイノリティを持つ人々。そのような人々に対して彼はまだ「努力をすれば必ず乗り越えられるよ」と自信を持って言えなかったという経験を持ち出し、そんな不公正な仕組みが残る世の中を変えて行きたいと語った。


 その時私は、自分の原体験を元に話す彼のビジョンを実に尊いと思った。一方、「言い訳できない世界」という強烈な言葉が、最近多くの人に触れて感じてきたモヤモヤの根元を刺激した。様々なビジネス書やSNSに触れる意識高い大学生にとって、努力は正義ともあろう言説が染み付いている中でこんな記事を書くに至った。

努力が報われる世界は確かに公正で美しい

「努力しよう。さすれば夢は必ず叶う。」
 こんな堅い言葉じゃないにせよ歌や物語の中で、このような物言いを聞いたことがない人はおそらくいないはずだ。そして、努力の上に成り立つ成功、そんな美徳を重んじる日本人の心を揺さぶるからこそ、そんな作品やらがヒットを積み重ねてきた。要は少なくとも日本人にマッチした価値観なんだろう。
 確かに努力した分結果に現れるという世界観は、全くの公正で清々しい。この言葉を盲信するだけで中長期的に努力を継続することができるともあれば、その効果から鑑みても非常に価値のある言説といえるかもしれない。

「努力は必ず報われる」族の人々が言う『10,000時間理論』について

当メディアでも題材として取り上げた『10,000時間理論』。
【金言】10000時間の努力で生き抜け!


メディアや歴史上で「天才」と語られる人々も、10,000時間以上の鍛錬の末に成り上がっているもので、「天才」と「あなた」との差は努力量の差に過ぎないとする論調である。もっと端的に言うと「あなたも10,000時間努力すれば天才になれる」と言っている。

これについて文献を追いかけてみると、天才と言われる人々(ビルゲイツやビートルズ)が日の目を見る前に10,000時間の努力をしていたという事実があったというだけで、それ以上のエビデンスは何もない。
もちろん当記事【金言】10000時間の努力で生き抜け!

の筆者は、「一芸」を得るための参考として『10,000時間理論』を引っ張っているのであって、これに反論の余地は全くないのは間違いない。(煽るような題目も私が書きました。申し訳ないです)

ただ少なくとも、
「ビルゲイツが10,000時間の努力をしていた」この対偶命題を考えても、
「あなたも10,000時間努力すれば天才になれる」という
この理論が間違っていることは明らかだ。

当たり前だけど「努力が必ず報われる」世界ではない

米私立大学の研究によって、
「練習が技量に与える影響の大きさはスキルの分野によって異なり、スキル習得のために必要な時間は決まっていない」ということがわかっている。

さらに、山口 周氏の 『武器になる哲学』著書内には、
「練習量の多少によってパフォーマンスの差を説明できる度合い」がわかりやすく表現されている。

テレビゲーム:26%
楽器:21%
スポーツ:18%
教育:4%
知的専門職:1%以下

努力は一定量こなすことで必ず報われるということはない。実際に世界はそれほど公正ではない。ということがわかる。

「努力原理主義」風潮の中で感じたモヤモヤの正体

 このまま努力原理主義の弊害を書く前に、この記事を書くきっかけになったモヤモヤの正体については軽く触れなきゃいけない。それは紛れもなく原体験からきていて
「努力すれば上手くいく」を「上手くいかないのは努力してないせいだ」に変換して押し付けられたことだった。
ある企業のプロジェクトでリーダーを務めた際、本質的ではないものを顧客に提案しなければいけない毎日にメンバーは疲弊していた。全員と徹底的に向き合って涙を流す人も多かった中、課題を分解してアドバイスをもらった一個上の先輩の言葉は一言だった。
「努力が足りないだけだよ」
自分の足数のことを指して言われるだけならいいけど、涙を流しながらも苦手なゴリゴリの顧客接点に向き合った人も全てひっくるめて「努力が足りない」。
確かにその先輩の努力や試行錯誤には頭があがらないけど、どこか陳腐に見えてしまった。


 不公正な世界で努力の可能性を徒に信じ込むことによる弊害は「許容できない」ということだと思う。
 他人を許容できないということ。皆さんは結果が出ない人を目の前にした時に、すぐに見下してしまったり自分の責任だろうと決めつけてしまった経験はないだろうか。もちろんその分析は必ずしも間違っていないこともあるだろう。しかし、世の中で起こるいじめや迫害はそういった「弱者に対する不寛容」をきっかけに起こっているんじゃないか。小中学校で傍観者/客体者としてそれを見てきて、今なら思う。努力して満足する結果を手に入れた人こそ、弱者に冷たい視線を向けるだけで終わりたくない。

 また、この世界を許容できないということ。これも記事を書く中でわかってきた。
何度も言っているように、この世界は公正ではない。受験や仕事において、勉強や会社にコミットし続けたにもかかわらず、「不合格」や「リストラ」の烙印を押されることがあるかもしれない。そこで湧き上がる「努力をしてきたののに...」という感情が、結果の出ない会社、学校を坂恨む結果になる。リストラ、不合格での自殺がなくならないのはそういう言葉のか。

 就活においては『優秀』の鎧をまとった社会人の間で「自責」「全て自己責任」という言葉ばかり跋扈している気がする。
「自責」という言葉を自分に課して努力することは本当に尊ばれるべき姿勢だと思う。ただ、「自責」は文字通り自分の中に止めておいて、他に「自責」を押し付けるのは一旦やめてみようと思ったという話。



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